【島守の塔】沖縄地上戦と荒井退造/島田叡について

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【島守の塔】沖縄地上戦と荒井退造/島田叡について

私は尊敬する人物を聞かれたときは「荒井退造」「島田叡」という二人の名前を挙げます。

母校のOBに荒井氏がいたことを当時の校長の話で知り、大学生になってから興味を持ちました。

沖縄では有名人ですが、本土ではあまり知られていない二人の存在について書いていきます。

沖縄地上戦とは

沖縄地上戦とは

沖縄戦、または沖縄の戦いは、第二次世界大戦末期の1945年(昭和20年)、沖縄諸島に上陸したアメリカ軍とイギリス軍を主体とする連合国軍と日本軍との間で行われた戦いである。

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連合国軍は3月23日の空襲に続き26日には慶良間諸島へ上陸、首里を放棄した日本軍を南方へ追尾しました。

“鉄の暴風”と表現されるほどの最激戦区であり、日本軍の特攻やゲリラ戦に精神をやられる者も続出。

長期戦である”寝技戦法”により多くの住民が巻き込まれ、沖縄住民の4人に1人が死亡したと言われます。

連合国軍の掃討作戦により6月23日、摩文仁の軍司令部で最高指揮官と参謀長自決したことで終了しました。

住民の犠牲に加え、1945年から1972年のアメリカ占領、それに伴う米軍基地問題など多くの問題の発端です。

当時の沖縄の状況

当時の沖縄の状況

当時の日本軍やガダルカナル島の陥落、山本五十六の戦死、アッツ島の玉砕など、敗戦が続きました。

1943年に国の防衛のため地方行政官の一斉異動が行われ、荒井は県知事泉守紀とともに沖縄に赴任します。

また米軍が沖縄に上陸する可能性を考え、陸軍第三十二軍と海軍沖縄方面根拠地隊が創設されました。

荒井退造

荒井退造

荒井 退造(あらい たいぞう、1900年9月22日 – 1945年6月26日?)は、日本の警察官僚。沖縄戦時、沖縄県警察部長として県民の避難・保護に尽力した。

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疎開の推進

見知らぬ本土へ行く不安を抱える県民に対し地域での説明を警察官に支持、疎開専門の援護室を作ります。

当時はまだ住民に危機感がなく、頼る人のいない本土へ行く不安や敵国の潜水艦への恐怖が上回っていました。

さらに荒井をよく思わない泉知事や内政部長が、”沖縄上陸はない”と発言するなど、身内からの妨害にも遭遇。

疎開を進めるために警察官家族を優先的に疎開させますが、そんな中に対馬丸の沈没事故が起きてしまいます。

自分を信じた人たちを死なせたことに苦しみながらも疎開活動を続け、20万人の命を救ったとされています。

知事の代役

当時は沖縄県知事というのは最果ての勤務で、戦地になる危険性もあり最低の役職とされていました。

県知事泉は住民を守るためである軍部の疎開計画に従わず、計画は荒井が独断で行っているとしました。

沖縄本土への空襲(10・10空襲)では泉知事は防空壕にこもり、県庁では荒井が情報収集の指揮を執ることに。

軍部も何度も沖縄脱出を試みる知事や内政部長に信用を無くし、荒井に指示を仰ぐようになっていきます。

結果、荒井は警察部長にもかかわらず「内政」「経済」「警察」のすべての業務を一人で行うことになりました。

島守の塔は島田視点が多くなりますが、彼が行動できたのも荒井の奮闘がなければ実現しなかったでしょう。

島田叡

島田叡

島田 叡(しまだ あきら、1901年(明治34年)12月25日 – 1945年(昭和20年)6月26日?)は、沖縄県最後の官選知事。兵庫県神戸市須磨区出身。座右の銘は、「断じて敢行すれば鬼神も之を避く」。

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覚悟の赴任

職務を放棄し住民や軍と対立する知事に対し次の県知事が検討されますが、良い人がなかなか見つかりません。

今後戦場になる可能性の高く、官僚の脱走も起こっていた沖縄にはたとえ県知事になっても辞退されます。

そんな中軍部から白羽の矢が立った島田はこれを即座に承諾、妻子を含む周りの人を驚かせました。

「若者が赤紙1枚で招集されるのに、自分が断るわけにはいかない」と拳銃と青酸カリを懐に沖縄へと飛びます。

さらに軍部から食料調達の頼みを聞いた際には、制空権がない中自ら台湾へ飛び、蓬莱米3000石分を確保します。

住民との交流

知事に就任した島田は、前知事によって溝ができた軍部・住民との関係修復のために動き出します。

上海事変から付き合いのあった人物を訪ねて陸軍32軍と情報交換し、戦時行政への移行を即座に決定しました。

また職員に”明朗にやろう”と呼びかけ、戦争に向けて疎開の継続や食糧確保など住民を守るために行動します。

一方で疎開の進まない地域には自ら出向い親睦を深め、村芝居復活やたばこ・酒の規制緩和などを行いました。

連合国軍が上陸してくると、首里城の放棄は軍とは関係のない一般住民を巻き添えにすると猛反対しました。

沖縄戦の終結

沖縄戦の終結

米軍上陸前の9日間で行った”上陸空襲”により、県庁と島田らは軍主力部隊とともに首里に移動します。

台湾上陸も予想していた軍司令部が人員を引き抜いたため、第三十二軍は計画変更を余儀なくされます。

それは水際戦闘を放棄し、ガマ(洞窟)の張り巡らされた首里城で敵の戦力をじりじりと削る”寝技戦法”でした。

そのため4/1に激戦を予想して上陸した連合国軍の兵士は、ほぼ無血での上陸にエイプリルフールを疑ったほど。

しかし連合国軍の鉄の暴風により軍は首里城を放棄、玉砕を避けあくまで本土決戦のための時間稼ぎに徹します。

島田・荒井はガマを移動しながら住民保護や食料調達などの行政を行いましたが、ついに県庁と警察を解散。

本土伝達のため数人に沖縄脱出を指示、県民や周りの人には「死ぬな」と伝え、自害ではなく降伏を薦めました。

「沖縄を地獄に変え多くの人間を殺した自分が生き残るわけにはいかない」と軍を追い、行方不明となりました。

「島守の塔」感想

「島守の塔」感想

住民に愛された官僚

非常に勇敢だった二人ですが、完全に非の打ちどころのない人物であったかは不明ということを書きます。

(軍部との距離が近かった、証言者が少なく高齢化も進んでいる、正式な記録は多くないなど)

しかし関係者や新聞は彼らを好意的にとらえており、戦争終結6年後に「島守の塔」が設置されました。

住民に苦労を強いる存在であった警察や県庁職員に対する扱いとしては、特別といってよい対応でしょう。

”県を挙げて称えよ”という雰囲気は好みませんが、このような人物がいたことを知っておくべきだと思いました。

死ぬ覚悟、死なせない覚悟

戦争直前に沖縄県知事に任命された島田氏は、自害用の青酸カリとピストルを持って沖縄へ飛び立ちました。

荒井も3年間赴任すれば異動があるのが普通ですが、異動はなく疎開させた妻子と会えぬまま亡くなりました。

彼らは死ぬ覚悟で自分にできることを行い、県民を守るために率先して行動を起こしました。

お国のために玉砕することが求められていた時代に「死ぬな」と生きることを説いたことは大きいです。

自らの信ずるところに従い揺らぐことなく生きた姿は、官僚だけでなく私たちが見習うべき姿かもしれません。

参考資料

  • 田村洋三, “沖縄の島守 内務官僚かく戦えり”, 中公文庫
  • TBS『生きろ』取材班, “10万人を超す命を救った沖縄県知事・島田叡”, ポプラ新書
  • NPO法人菜の花街道, “たじろがず沖縄に殉じた荒井退造”, 下野新聞社
  • “しもつけの心”, 2015年38-39号, 株式会社井上総合印刷営業企画グループ
  • 共同通信社, “20世紀の戦争 沖縄地上戦”, 草の根出版会
  • Wikipedia 「沖縄戦」「島田叡」「荒井退造」
  • 戦後75年記念映画「島守の塔」公式ホームページ

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