現在、兵庫県立美術館で行われている「30年目のわたしたち展」は1995年の阪神淡路大震災がテーマです。
震災にインスピレーションを受けた芸術家が部屋ごとに表現を行っており、解釈が難しいが面白かったです。
その中でラジカセに録音した声を流す展示があり、自分も別の震災を体感した身として何かを残しておきたいと強く感じました。
東日本大震災の情報は無数にあるでしょうが、ある一人の人間として感じたことを形にすることは決して無駄ではないと思っています。
いつどこで何をしていたのか
自分は当時小学6年生で小学校にいました。
その日は卒業を間近にしてお世話になった学校をきれいにしようという活動の最中でした。
自分は下駄箱や近くにある水槽を友人と一緒に掃除していました。
ある程度大きな揺れがやってきて周りは気にしていませんでしたが、自分は半分ふざけて水槽の近くの机の下に隠れました。
揺れはおさまるどころかますます大きくなり、水槽の水がバシャバシャと音を立ててこぼれ始めました。
自分はびっくりして水槽から離れました。
そのうちに先生がやってきて皆校庭に避難するように言われました。
私たちは恐怖よりもこれから起こる非日常に対しそわそわしていたことをよく覚えています。
その日は寒い日で、何も持たずに飛び出してきた小学生たちは寒さを感じ始めました。
不安を感じる女子に対してこの状況にワクワクしている男子はかっこつけて自分の上着を女子に貸してあげていたのを覚えています。
そのうち先生が余震の合間を縫って上着を教室に取りに行ってくれました。
その日は集団下校をすることが決まり、迎えに来られる親が下校班について帰ったと思います。
個人的に最も震災を感じたのは玄関に飾ってあった初代ガンダムのHGガンプラがすべて落下していたことでした。
両親の影響でジオン軍のモビルスーツが好きだった自分は、昨年のクリスマスにHGガンプラを全種類もらって作っては飾っていました。
シャア専用ゲルググか何かのアンテナがどこかに行ってしまい探したような記憶があります。
その日は特に普通に生活をして寝たように記憶しています。
人類による文明が敗北した日
東日本大震災の本当の威力を知ったのは次の日の昼くらいだった気がします。
テレビに映し出された映像で最も衝撃的で今でも思い出せるのは、津波によって大量に流される木材と原型をとどめた家、流れる水の上で炎が上がっていることがどうしても理解できませんでした。
木材を載せた波は堤防を乗り越えただひたすらに広がっていく様は小学生の目からしても異常なモノでした。
この記憶は当時のものなのか後からなのか不明ですが、津波によって大きな建物が崩れる様は人間が気づいてきた文明が自然災害によって破壊されていくように感じました。
これは自分にとって恐怖よりも人間の敗北を突きつけられたような気がして非常に悲しくなります。
今でも津波の映像を見て思い出すのは恐怖よりも無力感です。今でも涙が出てきます。
テレビでは津波の映像と非難を訴えるアナウンサー、それからスポンサー不在の中異様なCMを流すACジャパン。
こだまでしょうかとぽぽぽぽーんは今となってもなぜそのチョイスだったのでしょうかと思います。
今となってはカルト的な恐ろしさも感じます。震災後は動物たちがロボットに変形する動画が流行りました。
実際の被害は多くなかった
とは言っても被害はプラモデルが崩れたぐらいでした。
後は茨城に住む祖父の瓦が崩れて修理に行った際、道路がひび割れていたこと、レギュラーがなくてハイオクを入れようか考えたこと、ホームセンターが行列でブルーシートが手に入らなかったことが主な記憶です。
同級生にも知っている範囲では被害にあったり、卒業までに引っ越したりした人はいなかったように思います。
しばらくは余震に浮足立つこともありましたが、その後は特に何もなく卒業して中学校に行った気がします。
両親は放射線に対してかなり神経質になっており、チェーンメールに引っかかったり甲状腺やらヨウ素やらでわかめを食べさせられたり外であまり遊ばせてもらえなくなったり、いまだに山菜とたけのこはあまり食べさせてもらえません。
TwitterやLINEがまだ一般的ではなかったというのも驚きで、本当に正しい情報がどれなのかわからない中で両親も必死だったのだろうなと今では思います。
個人的に非常セットを作るのが好きで、震災当日の朝の新聞を取ってあったのですが捨ててしまったのは今でも悔やまれます。
美術館にも言及しているものがありましたが、新聞製作の点から震災当日の新聞はまるで震災のなかった別世界線のような錯覚を起こすのは不思議な感覚でした。
同じような被害にあったら避難所で退屈すると思って入れていたのは我ながら明暗だったのに、手に入れようと思えば入れられると考えて処分しました。
ミニマリストはこのような後悔が人生においてたびたびあります。
震災記念館に行く機会があった
それからは震災の日に黙とうをささげたりヤフー検索で検索すると1円寄付されるのをやったりと記憶から徐々に薄れつつありました。
そんな中、大学生になってから家族で東北旅行に行った際、本当に偶然震災の資料館を見つけて見に行く機会がありました。
関西から見た東日本大震災
就職の関係で関東から関西にやってきて思ったのは、東日本大震災が身近なものとして扱われていないことでした。
関西の人からすると阪神淡路大震災のほうが印象が強く、さらに今後やってくるであろう南海トラフ地震のほうが関心が高いのでした。
確かに実際に被害を感じることがなければ印象に残らないのは当たり前です。
ただ自分としては日本が一つになって頑張ろうとなっていた東日本大震災について、無関心な人も多かったということです。
しかし自分も何か具体的に何かしたのかというと何も言えないし、他の災害に対しての興味も同じようなものだと思いました。
広島の原爆との対比
東日本大震災のようにたくさんの命が奪われた出来事として、原爆があげられます。日本国民として言っておくべきだと思っていたところにようやく行くことができました。
原爆は一瞬で人間を影にするもので、人によっては痛みを感じる暇もなく亡くなった点が違うのかなと思いました。
自分の大切な人が助かるか助からないかの瀬戸際であがき、それを自分は高台から見守ることしかできない、がれきにつぶされてこれからやってくる津波に飲まれるしかなく恐怖を覚えていたでしょう。
それは死にたいのに死ねないという拷問に近い恐怖だったのではないでしょうか。
宗教という心の支えも少ない日本人が短時間で悟りの境地に慣れるとも思いません。
我々にできることはどんな形でもいいから残し、伝え、少しでも次の世代の心の中に何かを残すことだと思います。
どんなに小さな違和感でもそれはきっと大きな力になることだと思います。
語り部の活動からノーベル平和賞、岸田元首相による首脳の原爆記念館の来訪などその大切さを感じる機会は非常に多かったと感じています。
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